FC2ブログ

“Global Heart”

~ Yogaでシンプル・ライフ from Greenwich CT ~

語ろう会 その2:真我の意志

「アートマン(真我・霊魂)を車主と知れ。
肉体は車体、覚は御者、意は手綱なりと心得よ。
賢者たちは、もろもろの知覚器官を馬とよび、
諸知覚器官に対する諸対象を道路とよんでいる」    
                         (カタ・ウパニシャッド、Ⅲ.3-4)


これは、今からおよそ二千数百年前に成立したといわれる
カタ・ウパニシャッドという古代インド哲学の文献にある言葉です。

その中に、「自分とは何か」についてが、車主や馬、手綱などに喩えられ
上手に書き表わされています。
何を中心に生きるべきか・・・という命題を理解する上でたいへん面白いです。

車の所有者である車主が、アートマン(真我:精神性の制御力)
運転手である御者が、ブッディー(覚性:思考の制御力)
ハンドルである手綱が、マナス(意志:諸知覚の制御力)
エンジンである馬が、インドリア(諸知覚器官=眼・鼻・舌・耳・身)
ボディである車体が、シャリラ(肉体)

これらすべてが「自分」。
でもその中でも自分の中心にすべきものは、
肉体ではなく、感情や理性でもなく、
アートマン(真我・霊魂)であると、古代のインド人は考えました。

車主はどこへ行くのか、御者に指示できますが、直接に手綱はもてません。
御者は手綱をうまく使って、五頭の馬を操作して目的地へと向かいます。
五頭の馬が好き勝手に動くと、当然目的地へ進むことは難しくなります。
馬車が壊れても、手綱が弛んでも、車主の指示に従って進むことができません。
道(人生)は、坂もあれば曲がりくねった道路も、悪道も険しい道もあります。
その道は常に未知である故、御者の采配、力量や判断力が問われます。

つまり、肉体と心と理性の上に、アートマンを置き、
人間を身・心・霊の不可分な一体的なもの、と理解しました。
すべてのバランスがとれて、調和したときに目的地へと進むことが出来ます。
その中心になるものが、アートマンの意志と考えました。

「五つの知覚器官が意(思考器官)と共にその働きを静止し、
覚(判断意識)も動かなくなったとき、
人びとはこれを至上の境地という。かように、諸器官を固く抑制することをば、
人びとはヨーガと見なしている」                 (同、Ⅲ.9-10)



初めてこの五頭の馬と馬車という内容に触れたとき、
このような考え方が、二千数百年前にあったということに驚きました。

実は、これが私のYogaとの出会いとなりました。。
以下、「語ろう会」からは余談となりますが。。

苦しかった十数年前のこと・・・
私はプラトンに出会い、救われました。
それは彼のイデア論を中心とした、真実在、普遍性、魂の本来の相、
そういった思想が、私の今までのものの見方にコペルニクス的転換!
をもたらし、私は頭上が開かれた思いがしたのです。
その瞬間は、以前に書いた「エルの物語」を読み終えた時のことでした。

その数年後に、インド思想「ウパニシャッド」の文献に触れる機会があったのですが
そうしたら、ビックリ!

梵我一如の思想は、新プラトン学派のプロティノスの「一者からの流出」
という思想と、通ずるものがあるではありませんか!
そして、この馬と馬車にみる思想は、プラトンの『パイドロス』という作品の中で
語られるミュートス(神話・喩え話)によく似ていたのです。。

プラトンが書いた時代もほぼ同じくらい・・・
ソクラテスはよく瞑想状態になるのですが、
もしかしたら彼は、Yogaの思想に出会っていたかもしれない・・・

そんなことから、いつの間にか私は身体を動かすYogaと出会っていった次第です。

『パイドロス』は副題が、「美について」というもので、
「恋愛とは何か。それは<聖なる狂気>である」。。 
と、いうのがこの著書の根本テーゼになっています。
ここに出てくる美しいミュートスをいつかご紹介できたらな。。と思っています。


人間の本質というものは、
時代を経ても、そう変わらないものであることがわかります。
みんな、悩んで大きくなった!^^



スポンサーサイト



テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

Yoga | コメント:4 | トラックバック:0 |
| HOME |